旧関川家住宅民家資料館 (高知市所管施設)
修繕工事のため休館中です。
「概要」
慶長五年(1600年)土佐二十四万石の国主となった山内氏は、それまでの国主長宗我部氏の遺臣たちの勢力を無視することができませんでした。そこで遺臣たちを庄屋として起用し、また農業を営んでいる遺臣たちにも武士の身分を与えて不平不満を解消しようとしました。そうしてできたのが郷士制度です。
関川家は織田信長の二子信雄の家臣で徳川姓を名乗っていましたが、将軍徳川家と同姓であるのを遠慮して関川姓を名乗るようになりました。そして寛政二年(1790年)郷士となり、分家の数も増えて栄えてきました。
関川家住宅は分家筋ですが、今に郷士・豪農のたたずまいをみせており、昭和49年に重要文化財となりました。
「全体の造り」
薬医門造りの表門から入ると、南向きに主屋を構え、主屋西側には二つの倉を並べた平地豪農民家の典型的な配置です。
表門は主屋よりは後に建てられたものです。
主屋の建築年代は座敷の間本床の壁下にある雑巾摺という部分に「于時文政二卯歳後四月上旬張之野田村大工彌左衛門作」と墨書されていますので、文政2年(1819年)に建築、または一部に手を加えたのでしょう。
屋根は寄棟造りの茅葺きで、その茅葺きのまわり四面に瓦葺きの庇があります。
倉は道具倉が先に建てられ、いずれも明治前半ごろの建築のようです。道具倉の屋根は切妻造り、外壁はすべて貼瓦で内部にもみられ、本県では珍しい両開き土戸です。その隣にある米倉も切妻造りで、外壁の腰の部分は貼瓦であり、外壁の水切りが倉をどっしりとみせています。
「主屋内部」
シキダイ、ザシキ、オナゴベヤ、ダイドコロ、ドマは瓦葺きの庇の下にあります。一般的な民家では居間や座敷を寝室に使いますが、関川家住宅ではオク、ブツマ、オナゴベヤを寝室として確保したために、ザシキの間が押し出されて、全体として鍵型となり、居住部と接客部がはっきりと区別されている点にも大きな特徴がみられます。
・シキダイ
客を送り迎えする玄関にあたる間には、本床と地袋つきの棚をもつ脇床があります。天井には槍かけがあり、武士の面影を残しています。
・ザシキ
高貴な人を迎え入れる部屋で、本床と天袋つきの棚をもつ脇床とがあります。その後ろに奥の間とは大型の襖で仕切られていますが、古くは土壁で仕切られていて、座敷は客間として完全に居住部からは隔絶されていました。
・オク
居室と寝室とを兼ねていました。北側と東側との鴨居は、ほかの部屋の鴨居とは違った手の込んだ細工が施されている点が注目されます。
・ブツマ、オナゴベヤ
オクのさらに後ろに仏間、女子部屋と続きます。土佐の民家で仏間のある間取りはたいへん珍しく、寝室を兼ねていました。オナゴベヤは窓のない土壁の部屋で、女子の起居に使われていた部屋であったろうと思われます。
・ドマ
倉が建築されるまでは物置場や作業場として使われていたようです。
・ダイドコロ、イマ
台所は調味料の保存や食事室を兼ねていました。隣接する居間は細い桟を小間隔に取りつけた舞良戸という古風な板戸で仕切られた板間で、座敷とは別の落ちつきがあります。
囲炉裏の上には煙出しがあります。
・ヨウノマ
南に面した畳の部屋で、ここにも天井に槍かけがあります。
・トリノマ南に面した畳の部屋で、ここにも天井に槍かけがあります。
建築当初はこの部屋はなく、土間ヘの出入口がありました。その後いつ現状のようになったか明らかではなく、トリノマの意味も定かではありません。
説明文は高知市教育委員会作成のパンフレットから引用
所在地:高知市一宮中町3-11-59
休 館 日 休館中
開館時間
入 場 料
駐 車 場
TEL